まず責任の所在
外的要因の多くは弱さが問題となる
人間であれば捨てきれない弱さ云々もあるが、そんなものは個人の責任だ
内的要因による崩壊は人が人であるならば絶対に見えない部分からやってくる
いくら視力がよく周囲(そと)がちゃんと見え、また心身ともに鍛え心眼を得て己の内界を把握することができたとしても見えない部分がある
それは目の内側だ
それだけではないが一番分かりやすいのはそこだ
目は口ほどにモノをいう。しかしそれを感じ取れるのは第二・第三者の存在なくしてはあり得ないもので、己の目(心眼にしてもそうであろう)で目を見るのは不可能だ
故にこちらには責任を感じるだけ無意味というものだ
しかし、人間とは不思議なもので、外的要因による崩壊の時は「あいつのせいだ」と責任逃れどころか責任を他者に被せられるくせに、内的要因による崩壊の時は意味のない贖罪をする。
故に人間は人間たりえるのかも知れない
責任だけではない
外的要因は物理的接触でなければ立ち直ることが可能なものが多い。また、与えられるダメージは一瞬に多量にやってくる
内的要因はそも、じわじわと効くボディーブローのごとく、気づいた時にはもう取り返しがつかないものが多い。
同じ100のダメージでも、長きにわたって、それこそ拷問のように1日に1ダメージずつ与えられるのと1度に100与えられるのでは物理的にはどうか知りはしないが、精神的な死という面においてどちらが近いかは明白である
それでいて、内的要因による崩壊から立ち直る人間はそう少なくはない
これは何を意味するのか?
要は俺とさして変わらないのだと思う
いや、俺の比ではないだろうが、規模の大小はここでは捨て置こう
肉体には遺伝子という設計図がある。故に壊れれば修復する。というシステムを備え、そのシステム自体を侵食するウィルスなり何なりがない限りは元の形に似せて傷を治す
しかし精神には型枠がない。設計図どころか、内界そのものに形がないのだから、精神などと言う曖昧なものにマンガのハート型のようなものは存在しない
壊れたら、後は肉体の死を待つのみだ
だが精神とは、同時に水面の波紋ともとれる
第二・第三者からの波が、自分と言うものの形を思い出させてくれたり、あるいは新たな形をくれることさえある。
人はそれを「愛」と呼ぶだろう
問題なのはその「愛」が壊れた人間はどうやって内界にある精神を取り戻すのか、という話である
体が異性を求めようと、精神はそれを忌むのだ
だからこそ俺は、その手の「愛」をむしろ捨て、新しい物を探していた
それが最近になって見えてきた気がする
外界と内界。全く異なるそれらは、さりとて所詮コインの裏と表にすぎず、結局内界(なか)を治すことができるのは外界(そと)なのだろう
この感情に名前を付けるとしたら、人は何と言うのだろうか、まだわからない
「愛」でなければ「憎悪」でもなく、三欲にも属さず、温かみもないソレは、確かに今自身のガソリンとなり、エンジンとなり、ピストンからタイヤの溝にいたるまで、総てを形作っている
他人に大切な人間の幸せを任せてはいけない
信用とか、信頼とか、そんな話をしているのではない
みんなを幸せにしたいなら、みんなで一生懸命に頑張るしかない
だから、俺が不参加な世界での幸せもまた、欺瞞でしかない
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